近代文学合同研究会 第12回シンポジウム開催のお知らせ

近代文学合同研究会 第12回シンポジウム

日時:二〇一一年十二月十七日(土)午後一時より
会場:慶應義塾大学三田キャンパス 南館地下3階 2B33教室
http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html

テーマ:いま、『浮雲』を読む/考える

『浮雲』で笑う           日比 嘉高
女性は論じることができない  小平麻衣子
『浮雲』に異文化の壁をよむ  小林 実 
『浮雲』論の前提         高橋 修 

(司会:黒田俊太郎・富塚昌輝)


 ※Read Moreに司会の言葉・発表要旨を掲載しています。
○司会のことば

 かつて、〈近代小説〉の始発期の研究を志す者が、『浮雲』を論じることで、自らの研究を広く世に問い、同時に研究史の中に自らの位置取りを確認することを試みた時代が、たぶんあった。一九八〇年代の『浮雲』論は、作家と作品とを一体化させる枠組みから〈語り〉を軸とする表現構造自体の分析へと移行する動向があり、九〇年代には、〈『浮雲』=未完中絶作品〉説に疑義を突きつける流れや、〈恋愛〉の問題、つまり近代的な恋愛観、あるいは恋愛における近世と近代の再検討が大きな関心のまととなった。もちろんそれらは、表現論、受容論、ジャンル論、メディア論など、各々の論者の方法意識のもとに展開されていた。『浮雲』とは、さまざまな「読み」の対話・交響する場として機能していたと言えよう。
 『浮雲』研究の零年代を想定してみるなら、それを注釈の時代と言ってみることができるかもしれない。『坪内逍遙・二葉亭四迷集 新日本古典文学大系明治編』を代表として、典拠の解明や同時代文脈における語意の解明が進められ、数は多くないが、精緻な研究が続けられている。ただし、『浮雲』研究が「活況」を呈しているとはとても言えない状況である。高田知波氏は、九〇年代の研究史を概観した上で、「不謹慎を承知の上での話であるが、来世紀の『浮雲』研究は今度は「〈完結〉という物語」を相対化していく闘いから始まることになるだろうという比喩的な言い方をしておきたい」と予言したが(高田知波編『近代文学の起源』)、(特に同時代の)他者の研究へと積極的に関与し、しのぎを削ろうとする「闘い」への意志が、いま、稀薄のように思われる。『浮雲』研究の細密・専門化は、研究動向の拡散、あるいは消失の徴候のように思えるのだ。
 本シンポジウムでは『浮雲』を基軸に据え、異なる研究態度・方法に基づく「読み」が、相互に交渉し、「闘い」合うような対話空間を創り出したい。そのことによって、フロアからの積極的な介入を惹起し、活気のある議論が展開することを企図する。
 『浮雲』初篇が世に出て一二五年目を向かえようとする「いま」、『浮雲』の「読み」は、いかなる形で追求可能なのか。そして、そうした作業を『浮雲』において追求しようとしてきた/している欲望とは、いかなる場所で生成されるのだろうか。

○発表要旨

『浮雲』で笑う                             日比 嘉高

 『浮雲』は笑える小説なんじゃないか、というところから出発してみたい。もちろん、『浮雲』第一篇が滑稽本の影響下にあり、江戸戯作の語りを引き継いでいたことはとうに指摘されているし、そもそも滑稽味溢れる『浮雲』前半の語りを一読すれば『浮雲』に笑いの要素があることは自明であるから、『浮雲』と笑いの取り合わせそのものにはなんら発見はない。
 これまで『浮雲』の笑いは、おおむね(1)戯作との類似性から説明されるか、(2)近代文学における「笑いの喪失」(またその反措定としての再発見)、の文脈で論じられてきた。(1)では滑稽本の笑いと対照しながら、発話者の無知や認識欠如、現実性からの逸脱ぶりに共通性を見いだした林原純生の研究などがある。(2)としては中村光夫の評論「笑ひの喪失」を受けながら第一篇から第三篇へといたる『浮雲』の行程の中に「笑いの喪失」があることを論じた綾目広治の研究などがある。どちらも重要な指摘であり、本論においても主要な論点となるだろう。
 だが、いずれの方向の先行研究も、『浮雲』というテクスト自体が備えている笑いの質を十全には説明していない。戯作の影響下にあるとはいえ、『浮雲』はやはり一八八〇年代の明治近代の小説なのであり、そのことを抜きにして『浮雲』の笑いの理解はありえないだろう。この発表では、同時代の無名の官員小説、田中政一郎『政海波瀾官員気質』(共隆社、一八八七年三月)などを反照として用いながら、『浮雲』の笑いの解明を目指したい。


女性は論じることができない                    小平麻衣子

 『浮雲』は、お勢へのあからさまな揶揄のために、論者がフェミニストかどうかを示す試金石ともなるらしい。先行研究は、お勢の移り気の原因を、時代風潮への作者の迎合に求め、あるいは秘められたお勢の近代的思考を明かにするなど、同情を表してきた。しかし、これらは、巌本善治に代表される西洋主義を、お勢がどの程度実現できたかを評価の基準としていた。
確かに、お勢が「学問」を主張するとしても、それが旧弊な結婚と対立するものかは謎である。女性の学問が嫁入り道具とされる矛盾は、既に当時から指摘されており、お勢の学問の本気度は、あるべき理想との関係でとらえるのか、状況との交渉としてとらえるのかで、大きく異なる。ただし、その解決以上に、考える際の話題が、主張や学問の内容面、例えば結婚観の差異や、女子向けの教育カリキュラムの限定性に限られ、また、お勢が読んでいた『女学雑誌』の社説や著名人による記事の分析に偏っていることには、違和感がある。
 たとえば、『女学雑誌』初期の相談欄「いへのとも」には、兄と頼む人と清廉に語りあいたいが母に禁じられるという悩みや、自分の先生と結婚したいがどうすればよいか、といった巌本の主張を受けたような女性読者からの相談が寄せられ、お勢との近さも感じられる。そして気になるのは、文体である。男女の仲が議論すべき話題になるのか、お政の弁じるような猥褻になるのかは、内容だけでなく、当然文体に多くを負っている。また、「寄書」の欄では、少しずつ増えて来た女性読者の論説文や、珍しいケースとしては読者同士の論争を見ることができる。
 だが、巌本善治が、男女の「朋友」と結婚に至る「相性」は異なるという、彼自身の結婚の理想を覆したかにみえる見解を展開するのは、これら女性の書き手の増加する時期であり、また複数の文体を備えた小説においてであった。ここでは、女性の弁論や対話的な文体が、愛情に隣接するとは決して認識されえず、それゆえリアルと受け取られる女性の内面が不在になっていることは明らかである。議論を重視している『浮雲』も、こうした事情を共有している。この場合、お勢を好意的に読めるということすら、空白に依存し、女性の内面の不在を追認してしまうことになる。フェミニストは『浮雲』を論じにくい。そのこと自体を通して、消された女性の言葉を探ってゆきたい。


『浮雲』に異文化の壁をよむ                     小林 実

 二葉亭四迷が『浮雲』を書くにあたって、さまざまなロシア文学作品を参照していることはすでによく知られている。ただし、それがただの模倣ではない以上、多くの類似とともに相違点も認められる。また異なる性質の作品をとりまぜて利用することの弊害にも陥っている。
 後年の談話のなかで二葉亭は、多くのロシア文学作品が社会批評を目的として書かれていた点を指摘し、自身の創作も当初はそれを目指していたことを証言しているが(「作家苦心談」)、それは、才能を発揮できずに怠惰に流れていく性格的な弱者である「余計者」を主人公とする、ロシア近代小説の一つの傾向を踏まえている。
 ただし、この強い社会志向性とは別に、ロシアには書くことあるいは語ることの自意識を書いたゴーゴリからベールイにいたる系譜もある。ロシア近代文学の父プーシキンはすでにその両面を兼ね備えていたが、批評家ベリンスキーは、文学作品から社会批評性を読み解くことのみを一般化し、二葉亭もその伝統を学んだ。『浮雲』執筆の困難は、この一面的な文学観と多様な創作方法との齟齬を、あらかじめよく理解しないまま書き進んだ結果だと考えられる。そしてそのことは、自身も社会批評性を企図しながら、結果的に狂気に陥った晩年のゴーゴリの姿とも重なる。
 また、登場人物の内面を踏みこんで描く方法を、二葉亭はドストエフスキーの『罪と罰』から学んでいると思われるが、『罪と罰』では語り手がラスコーリニコフの思考を代弁しつつ、あくまで回想によるメタ・レベルの語りを維持しているのに対して、『浮雲』の語りは文三と同化するレベルに立つような不安定さが認められる。
 社会批評性を発揮させる場合においても、例えば、ツルゲーネフの『ルーヂン』では、主人公ルーヂンの軽薄さを浮き彫りにするために、彼を相対化する登場人物たちが肯定的に設定されている。ところが二葉亭の『浮雲』では、語り手が判断の基準を用意しないうちに文三の内面に肉薄していった結果、社会の改善策を示唆するような結末をめざすことが困難となっている。『浮雲』第十八回で、突然お勢の描き方が変わる不自然さも、その困難を察知した作者が、ゴンチャロフの長編『断崖』のストーリー展開に近づけることを性急に行おうとした痕跡だと考えられよう。
 その性急さは、文三の心理を語るために、彼に寄り添った語り手が、それ以前にお勢の性質を断定的に語っていたのを忘れて、彼女の内面をわからないふりするわざとらしさとして表われてしまう。
 これらはいずれも、二葉亭による「ロシア文学」という異文化との格闘の記録だといえる。


『浮雲』論の前提                            高橋 修 

 『浮雲』論にはいくつかの前提がある。むろん、どのテクストをとっても解釈の大枠のようなものがわれわれの読みを無意識裡に縛っていることは事実だが、『浮雲』論の場合は文学史の中で特別な位置を与えられているせいか、とりわけ強烈である。テクストの全体像からしても、『浮雲』を中絶した小説と考えるのが歴史的な前提だった。こうした認識の枠組と呼応するように、初出、『太陽』臨時増刊再掲版ともに「終」あるいは「完」と記されているのにも関わらず、明治四三年以降に編まれた個人全集・文学全集では、日本近代文学大系『二葉亭四迷集』(角川書店 一九七一)を除いて、最近刊行された新日本古典文学大系明治編『坪内逍遙・二葉亭四迷集』(岩波書店 二○○二)で明記されるまで、「終」の文字は記されていなかった。長きにわたり、本文自体もわれわれの解釈を方向づけていたのである。『浮雲』論はこうした強固な歴史性をもった認識の布置によって呪縛されてきたということができよう。
 しかしながら、『浮雲』論の前提はここにとどまるものではない。発表では、意識的無意識的にわれわれ読者を縛ってきた前提を明らかにし、その後、ささやかな見通しを示せたらと思っている。〈浮雲〉のように行方が定まらない発表になりそうだが、当日まで熟考したい。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

ご紹介

近代文学合同研究会

「近代文学合同研究会」は、主に東京近郊の近代日本文学を専攻する大学院生有志が集まって、1995年7月に活動を開始しました。現在、学習院大学、慶應義塾大学、中央大学、立教大学などの大学院生を中心に、四十名程度の会員が参加しています。基本的に自主参加・自主発表を旨とし、月に一度程度の研究発表会や読書会、また年に一回のシンポジウムを中心に、様々な活動を行っています。今後も研究発表・論文批評・読書会の場として、会員の自主的な活動に基づいて活動していきたいと思っています。

「近代文学合同研究会」では、会員、各イベントの参加者を募集しています。近代日本文学の研究に携わっておられる方であれば、どなたでもご参加頂けます。
メールはこちらからお送りください。

カテゴリー

カウンタ

ブログ内検索